2017年11月1日
[ TBS記者 竹内明 ]
高度の機密保持を求められる「内閣衛星情報センター」に人事異動した水谷俊夫(仮名)。ロシア大使館員リモノフから、「偵察衛星の撮像対象を教えろ」「職場の座席表を持ってこい」と迫られた。水谷はその圧力に負け、職場のパソコンで、海外メディアの解説レポートを作成して渡すようになる。
衛星画像分析の研修中、水谷は自衛隊OBの講師から、こんな講義を受けた。
「ロシア人からお金をもらったらアウトです。たとえば5万円を受け取ってしまったとします。お金を渡す瞬間を別のロシア人が写真を撮っていて、あとで脅されます」
この自衛隊OBは、ロシアスパイの籠絡の典型的な例として講義したのだが、水谷は冷や汗をかいた。自分が今まさに同じことをしているからだ。
水谷は当時の心境をこう自己分析している。
「ロシア人は危険だという話をされると、私の心理としてはそれを遠ざけようという心理が働くようになっていました。これは嘘だと。何を言っているんだ、この人はと。自分の中で自己完結させていたのです」
この時点で、水谷はロシア人たちの正体に薄々気づき始めていたのだ。
リモノフから機密情報を要求されてから、なんとなく関係はぎくしゃくし始めていた。対等な関係が崩れ、上下関係が明確になったのだ。それを察してか、リモノフが切り出した。 「帰国することになりました。次は俺よりももっと扱いやすい人間が来るから、水谷さん、安心していいよ」
後任のロシア大使館員とは大森のホテルで待ち合わせた。頭が禿げ、鼻の下にちょび髭を生やした小柄なロシア人だった。
<二等書記官・ドゥボビ>
名刺にはこう書いてあった。明るく、人なつこい男だった。水谷と会っても、仕事の話はせず、車の話ばかりをした。
「僕は車が好きなんです。いまマツダの車に乗っているのですが、エアコンが壊れてしまって調子が悪いのです。でも、大使館が新車購入をOKしてくれなくて困っているんですよ」
リモノフに厳しく迫られた直後だっただけに、水谷は安心した。だが、ドゥボビも毎回10万円を水谷に渡すことを忘れなかった。
次の男はベラノフという二等書記官だった。年が若く、ソフトな印象だが、日本語が少し下手だった。ベラノフが一度、約束をすっぽかしたことがある。大森のホテルのロビーで待ち合わせていたら、姿を現さなかったのだ。この晩、水谷は2時間待ったが、諦めて近くの定食屋で食事をして帰宅した。実はこれが危機を知らせる兆候だった。
この日、ベラノフは待ち合わせ場所の近くに来ていた。だが、GRUの「防衛要員」が待ち合わせ場所が、「監視」されていることを察知したのだ。「防衛要員」とは、諜報員に危険が迫っていないか、文字通り防衛する役割を負う安全確保要員だ。この防衛要員が気づいたのが、水谷の周囲で雑踏に溶け込んでいた警視庁公安部の捜査員だった。ベラノフは防衛要員から危機を知らされて、待ち合わせ場所に姿を現さなかったのだ。
警視庁公安部外事一課には、第四係というロシアスパイの摘発を専門とする部署がある。四係の「ウラ班」は、ロシアスパイの「行確(行動確認)」の技術を研ぎ澄ました特殊チームである。GRUの防衛要員は「絶対に見破られない」と言われる尾行を見破ったのだった。
「先日は仕事が忙しくて行けませんでした。水谷さん、次回からは日曜日に会いましょう」
電話をかけてきたベラノフは監視されていた事実を告げずにこういった。
会食の場所は転々と移り変わった。豊洲駅近くの寿司居酒屋で食事をしたあとのことだ。店の外に出たとき、ベラノフはいつものように百貨店の紙袋を渡してきた。
「これ、おみやげです」
中に、10万円入りの封筒が入っているのは明らかだった。
「ああ、ありがとう。これは私からです」
水谷はお返しに、プレゼントを渡した。デパートで買った「甚平」、7000円ほどのものだった。
「じゃ、帰りますので」
ベラノフはエスカレーターを降りていった。水谷は地下鉄豊洲駅に向かった。すると、券売機の前にベラノフがいる。電車で帰るのか。また、顔をあわせたら気まずいだろう。こう思って、水谷は再び地上へ戻った。時間を潰すために、駅前広場に向かった。階段の下の暗がりで、ふと思い立った。
きょうも10万円が入っているのだろうか。水谷は渡された紙袋の中から封筒を取りだし、中に入っていた一万円札を数えた。遠くから、その指の動きを見ている男がいることに水谷は気づかなかった。その男は、十回数えて止まった水谷の、右手の動きを隠しカメラで記録していたのだ。
水谷はこのとき、外事一課のスパイハンターたちに取り囲まれていた。スパイハンターたちは、駅前広場に佇むカップル、タバコを吸うサラリーマンに偽装していたのだ。(続く)
竹内明(TBS記者)
社会部、政治部、NY特派員、ニュースキャスターなどをやってきました。諜報、テロ、外交、政治汚職などが専門分野。ノンフィクションやスパイ小説も書いてます。5冊目執筆中。