【現場から、】平成の記憶


2019年4月23日
沖縄暴力団抗争 元刑事の悔恨

今回は「沖縄の暴力団抗争」です。昭和に始まった抗争は平成に泥沼化し、一般市民や警察官も犠牲になりました。当時の捜査幹部はいまも悔しさをにじませます。

「射殺すること、ぶち殺すことも躊躇するなと」(斉藤隆 沖縄県警本部長〔当時〕)

昭和の時代に始まった沖縄の暴力団抗争。勢力争いや分裂によって衝突を繰り返し、死者20人、負傷者114人を出しました。

平成はそんな抗争が泥沼化する最中に幕を開けました。沖縄県内に唯一存在する指定暴力団「旭琉會」。その源流は戦後、アメリカ軍の倉庫から食料や生活物資などを略奪していた若者たち、いわゆる「戦果アギヤー」が集団化したものです。平成2年には、内部で2つのグループが主権を争って分裂し、血で血を洗う抗争に発展しました。

こうしたなか、組事務所の工事をしていたアルバイトの男子高校生が対立する組員に間違えられ、拳銃で頭を撃たれ死亡する事件が起きます。

「暴力団が入ってきたら町はダメになる。よその人が歩かなくなる、怖くて。怖いの通り越して、ワジワジーする(怒りがこみ上げる)」(周辺住民)

さらに翌日には、事務所付近で警戒にあたっていたパトカーに銃弾が撃ち込まれ、警察官2人が死亡。実行犯の1人はいまも捕まっていません。

「敵をとるというのは、早期に解決することだということで、捜査員も大量に投入した。必ず事件をあげないといけない。これは絶対、許してはいけないと」(元沖縄県警刑事部長 稲嶺勇さん)

一連の抗争事件の捜査にあたり殉職した警察官の同僚だった稲嶺勇さん。いまも事件の記憶を胸に抱えています。

「思い出したくはないけれど、復讐してやろうという気はある」(元沖縄県警刑事部長 稲嶺勇さん)

6次に及んだ抗争は平成4年に終結し、この年の暴力団対策法施行の大きなきっかけとなりました。

去年11月、殉職した警察官2人の名前が刻まれた慰霊碑が建てられました。警察官を射殺した実行犯の1人、又吉建男容疑者は現在も指名手配中です。平成12年に京都府内の病院で末期がんの診察を受けていたことなどから、死亡した可能性が高いとされていますが、稲嶺さんは悔しさとともに後輩たちに思いを託します。

「当時の合言葉が『首を取るか骨を拾うか』。退職するとき、若い刑事の皆さんに言ったが、又吉を捕まえて初めてこの事件の解決だよと」(元沖縄県警刑事部長 稲嶺勇さん)

事件を風化させないために、これからを担う警察官たちに慰霊碑は平成の記憶を紡いでいきます。

「平成の記憶」取材後記

凄まじい抗争を記録した映像や稲嶺元沖縄県警刑事部長から語られた事件の記憶。

一連の抗争が終わり、2派の冷戦状態となった平成6年に生まれた私にとって、それは見たことのない沖縄の一面で、衝撃を受けるものばかりでした。

「首を取るか骨を取るか」―

退職した稲嶺元刑事部長の言葉の端々には、捜査に奮闘するも現役中に又吉の逮捕に至らなかった悔恨の念が滲み出ていました。慰霊碑はそんな想いを現役の警察官たちへと受け継いでいきます。

「事件・事故は社会を映す鏡」だと稲嶺元刑事部長は話します。

私自身、これからの時代を担う記者として、日々沖縄で起きる事件・事故と向き合い続けたいと思います。

記者:上里弘美

2018年入社 警察担当記者