【現場から、】平成の記憶


2019年4月8日
雲仙普賢岳 ~両陛下初の被災地訪問

新しい元号が決まり、天皇陛下が退位されるまで3週間あまりとなりました。国内で大きな災害が起こるたび、現地を訪れ、被災者を励まされた天皇皇后両陛下、その始まりは、長崎県で起きた噴火災害でした。

平成最後となった天皇誕生日、陛下は去年1年間をこう振り返りました。

「各地で災害が起こり、いまも不自由な生活を送っている人々のことを思い、深く案じています」

宮内庁によりますと、天皇皇后両陛下が即位されてから被災地を訪問した回数は、去年までで37回に上ります。その最初は、即位から2年後のことでした。

平成3年(1991年)6月3日、長崎県雲仙普賢岳で起きた大火砕流です。消防団員や報道関係者ら43人が犠牲となりました。

当時、被災地の市長だった鐘ヶ江管一さんが、両陛下御訪問の知らせを受けたのは、大火砕流からわずか1か月後でした。この時、噴火活動はまだ収まる兆しはありませんでした。

「もうしばらく待ってもらった方がいいんじゃないかと。内閣も宮内庁も、『まだ早うございます』『噴火の真っ最中だから、しばらくお待ちください』とお止めになったそうですね。しかしそれでも、『どうしても行くんだ』と」(元島原市長 鐘ヶ江管一さん)

噴火が続く中、天皇陛下の強い意向で実現した異例のご訪問でした。両陛下がまず訪れたのは、仮設住宅でした。

陛下が被災者の目の前で声をかけられるのは、当時、前例のないことでした。

次に訪れた体育館。中は、静寂にも似た空気に包まれました。そこへ両陛下が姿を現します。平成の時代、われわれが何度も目にすることになる象徴的な出来事が、ここで初めて起きました。

「お入りになって、よく見たら、床にぱっとお座りになるじゃない」(元島原市長 鐘ヶ江管一さん)

天皇陛下が、固い板張りに膝をつかれたのです。誰もが目を疑う光景でした。

この時、両陛下に声をかけられたのが立光美佐子さんです。大火砕流後、幼い子ども3人を連れて避難していました。

「大変ですねって、おっしゃってくださいました」(立光美佐子さん)

あれから28年。立光さんは、当時のやりとりを今もはっきりと覚えています。

「雲の上の存在から声をかけていただくのはいままで経験が無いじゃないですか。だからもう、それは体の中にそのまま染み込んでいると思いますよ」(立光美佐子さん)

1か月以上に及ぶ避難で疲れや不安がピークに達した被災者にとって、この日は復興を目指す転機になったといいます。

「不安だらけの避難生活じゃないですか。でも、そこにいらっしゃる方々、皆さん、勇気付けられたんじゃないかなと思いますね。すごく感謝の気持ちでいっぱいです」(立光美佐子さん)

普賢岳山頂の溶岩ドームは、後に「平成」新山と名付けられました。時代が「令和」へと変わっても、平成の元号は被災地を見守り続けた両陛下の足跡とともに後世へ語り継がれます。