【現場から、】平成の記憶


2019年3月26日
コソボ紛争 日本で治療受けた少女は

今回は1990年代後半に旧ユーゴスラビアで起きた「コソボ紛争」で大きな傷を負った1人の女性を取材しました。日本の医療に助けられ大人になった彼女は、いまも残っている民族間の分断に何を思うのでしょうか。

悲しげな表情でカメラを見つめる女の子。当時1歳9か月だったベシアナ・ムスリュウさんは、自宅がセルビア軍に爆撃され、頭や顔に大やけどを負いました。あれから20年、女の子は22歳になりました。

「けがしたときはここの部分、髪の毛が全然無くて、こちら側の耳も全然なかった。ここの骨(肋骨)を取って耳の形にして、その後、耳をつけました」(ベシアナ・ムスリュウさん)

やけどがひどく、コソボでは治療できませんでしたが、現地で活動していた日本のNPOの助けを得て、11年間にわたって東京の病院で15回の手術を重ねました。

「つらくて、痛くて、もう嫌だ、どうでもいいみたいな(気持ち)。でも日本の病院を出た瞬間にいろんな日本人と話ができて、いや人生の中にもっといいものがある(と感じた)」(ベシアナ・ムスリュウさん)

1998年2月に始まったコソボ紛争。コソボ自治州で人口の多数を占めるアルバニア系住民がセルビアからの独立を求めたことが発端で、両民族は凄惨な戦いを繰り広げます。セルビア側の弾圧が残虐だと非難を集め、アメリカが主導するNATOは「人道的介入」として、78日間にわたり空爆を行いました。多くの犠牲者を出し、1年4か月後(1999年6月)に終結したのです。

2008年に独立を宣言したコソボ。しかし、ロシアやセルビアはいまも承認を拒んでいます。

首都プリシュティナでは、当時空爆に踏み切ったアメリカのクリントン元大統領が英雄として称えられるなど、紛争の記憶が色褪せていません。

「私の村では7人が殺された」(アルバニア系住民)

北部にある街では、民族間の対立が今も地域を分断しています。

「この橋を渡りますと、あちら側はまったく別の街になります。セルビアの国旗が揺れています」(記者)

街を隔てる橋の向こう側は、セルビア系住民の居住区で、アルバニア系住民は立ち入りを控える場所です。店の看板にはセルビア語のキリル文字が並び、通貨もセルビアのお金「ディナール」が使われています。

「コソボの独立はダメ、絶対ダメです。コソボは私の先祖の代からずっと私たちのものです」(セルビア系住民)

去年10月に結婚し、このミトロヴィツァで暮らすベシアナさん。これからの20年間は幸せな未来にしたいと考えています。

「なんで戦争したのか?それを誰も教えてくれない。セルビアがコソボを欲しくて、コソボはセルビアが欲しくて、欲しいものはなんで幸せと平和ではなくて場所(領土)なの」(ベシアナ・ムスリュウさん)

分断の街・ミトロヴィツァではいま、相互理解を深める取り組みが行われています。こちらのNGOでは、アルバニア系とセルビア系の子供たちが、違う民族としてではなく人としてふれあう目的で、ともに英語を学んでいます。

「自分にあったことを誰にも起きてほしくないから、コソボとセルビアは手をつないで仲良くなって人生を幸せに続けること」(ベシアナ・ムスリュウさん)

笑顔を取り戻したベシアナさん、いつか憎悪の連鎖を断ち切れる日が来ると信じています。