【現場から、】平成の記憶


2019年2月19日
反日デモの“標的”となった百貨店

今回は、7年前に中国各地で繰り広げられた反日デモです。1万人以上のデモ隊の標的にされ、甚大な被害を受けた百貨店。当時、社員が記したメモからその記憶をたどります。

「日本の商品を排斥せよ!」

2012年9月、日本政府が尖閣諸島を国有化したことに反発する「反日デモ」が中国各地で繰り広げられました。

「中国内陸部にある湖南省では、百貨店が反日デモの標的になりました」(記者)

湖南省で3つの百貨店を構える平和堂。地元では日系企業の象徴的存在で、1万人以上のデモ隊がここに集結したのです。当時、デモ隊に囲まれた平和堂の事務所で対応にあたっていた種子田晃さん。あの日のデモ隊の動きをメモに残していました。

「午前8時30分、中国国旗を持ち楽しそうに集まる。まだ深刻な状況ではない」

「10時30分、群衆が1万人規模になる」

「11時、群衆おさまらない。日本車を襲う。投石する人がでてくる。映画の中のワンシーンのようになる」

緊迫する周囲の状況。しかし、ぎりぎりまで深刻な事態には至らないと考えていたのです。

「中国の人に大事なのは食事だから、我々日本人はこれでデモが終了すると思った。おなかが減ってきたので、1時半に(デモが)おさまってきたみたいだから、『カップ麺にお湯を入れる』で終わっている。この段階から、わっときたのです」(平和堂〔中国〕種子田晃 本部長)

「バリケードが倒されまして、平和堂に暴徒化した群衆がなだれ込んでいこうとしています」(記者)

午後1時半ごろ、デモ隊がシャッターを破って店内に侵入。看板やショーウインドー、売り場が徹底的に壊され、商品も略奪されました。被害総額は30億円以上。特に被害が大きかったのは、1階の化粧品売り場でした。

「化粧水とか香水のにおいが立ちこめるような、五感に入ってくるような光景が見られた」(平和堂〔中国〕種子田晃 本部長)

中国からの撤退も一時、頭をよぎりましたが、壊されたショーウインドーの前に集まった客の姿を見て、復旧を決意したといいます。

「我々のお客さまが翌日泣いていた。たくさんの方がここで泣いていたのを覚えている。我々が必要とされるなら、頑張って復旧しないといけないという気持ちになりました」(平和堂〔中国〕種子田晃 本部長)

「がんばろう!がんばろう!」

営業再開には半年はかかるとみられていましたが、出店しているテナントに頼み込んで1か月半後に営業を再開。開店当日には、この年最多の3万2000人が来店しました。一日でも早く店を開けようともがいた日々。そのときの思いがメモの最後に書かれています。

“そのうち なんとかなるだろう!”

「いつもこの仕事のノートに挟んでいるのですが、見ると、こんなの何とでもなる。あの時のことを思うと何とでもなると。いつも大事にお守りみたいに持っています」(平和堂〔中国〕種子田晃 本部長)

反日デモで被害を受けながらも中国人客の支えにより復活した百貨店。その姿には、平成の時代の日中の対立と友好の歴史が刻まれていました。

「平成の記憶」取材後記

反日デモで何か取材できないだろうか。当時の映像をまず見てみようと、マザーテープを手に取ったところ衝撃が走りました。日本製の車を次々と破壊し、百貨店の窓ガラスに向かって石を投げつけるデモ隊。ついには店のシャッターを破って店内に侵入、商品を略奪したのです。現場を撮影していた記者の「これはもう反日ではない」というつぶやきには、怒りと無力感がこもっていました。

反日デモで大きな被害を受けながらも、なぜ中国で営業を続けたのか。私が一番知りたかったことです。当時、平和堂の8階事務所にいた種子田さんは「階下からデモ隊が上がってくる、日本人を探している」という連絡を受けました。ひとつ上の階に避難し、最後は覚悟を決めたといいます。命の危険にさらされながらも、なぜ中国にこだわるのか。答えは「中国人のお客さんに支えられたから」でした。

中国で様々な困難に直面しながらも、力強く生きる日本人。そんな人々の声を今後も伝えたいと思っています。

記者:森岡紀人

毎日放送1998年入社
2018年3月から上海支局支局長