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中国・天安門事件から30年、軍制圧まで広場に残り取材を続けた記者の当日レポートを再配信

 1989年6月4日、北京市内では、「天安門広場の周辺」を中心に軍の武力行使によって多くの市民、学生等が犠牲となりました。中国政府公式発表では死者319人ですが、実際は数千人との推計もあります。広場では何があったのか。軍が広場を制圧した午前6時過ぎまで広場に残り、取材を続けた記者の当日の貴重なレポートを配信します。(1989年6月4日午後6時「報道特集」放送から)

 深夜の攻防は、市民・学生が「軍」に投石する際の叫び声で幕を開けました。

 深夜12時過ぎ、「人民解放軍」が西から「天安門広場」方向へ進軍し、市民や学生達は投石でこれに向かい、一時は「軍」を食い止めました。

 市民・学生たちの興奮度が最初のピークを迎えた午前1時すぎ、突然1台の装甲車が「長安街」東側から市民らの作ったバリケードをブチ破り、「天安門」正面まで突き進みました。

 しかし、この装甲車は、市民・学生らにあっと言う間に取り囲まれ、中の兵士が外に引きづり出された後、火炎瓶等が投げ込まれ、炎上しました。「人民軍」は今までと同じように、市民らに押し返されてしまうのか、とさえ一瞬思われましたが、しかし、このあと西から千人以上の兵士が「天安門」まで威嚇射撃を激しく繰り返しながら進攻しました。かつてない「軍」の厳しい態度に、市民等も大きく後退しました。

 睨み合いが続く中、突然1人の学生が火炎瓶を持って、「軍」目掛けて歩き出しました。他の市民が「ヤメロ」「戻れ」と叫ぶ中、その学生は一歩一歩、「軍」に近づき10メートルも行った所で、突然「軍」の発砲に合い、火炎瓶を持った右手を撃たれ、瓶は鈍い音を立て、学生の足下で割れました。

 そしてこのあと、「天安門」に張り付く形で待機していた「人民軍」の一部が、「長安街」の東を閉鎖するような形で、再び突き進み、威嚇射撃の音が鳴り響きました。

 午前3時・4時と「軍」の広場を取り囲む包囲網は、徐々に狭められていきましたが、「長安街」の市民らとは違って広場の学生は、もう覚悟を決めているのか、意外と平静で、最後の瞬間が来るのを恐怖と闘いながら、じっと待っているかの様にも見えました。

 午前4時半、遂にその時がきました。「軍」の尖兵隊・数十人が発砲しながら、「学生指揮部」のある「人民英雄記念碑」を占拠し、記念碑から威嚇射撃を続けました。

 (午前)4時40分。広場のスピーカーを通じて、正式な最後通達が出され、(午前)5時、遂に「天安門」から数百人の兵士が広場に突入。間髪を入れず、数台の軍装甲車が学生達の作ったキャンプを押し潰しながら、広場を突き進みました。

 学生達は一時混乱したものの、最早これまでと、広場の南東から撤退しました。やはり、淡々とした顔つきで退場してゆく学生の多い中、悔し涙で顔をクシャクシャにしながら広場を去って行った地方学生の指導者の顔が逆に印象的でした。

 そして(午前)6時には、広場は完全に軍の手中下となりました。

(1989年6月4日午後6時「報道特集」放送から)

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更新日時:10月16日 1時02分

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