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日本登山史に輝くヒマラヤ初登頂 80年前の「偉業の旗」を探しに

日本登山史に輝くヒマラヤ初登頂 80年前の「偉業の旗」を探しに

●「聖雪にひれ伏し泣く」感激を伝える80年前の新聞記事。頂上に3本の旗を埋めた
●頂上にテントを張ってでも探す、「偉業の旗」を探す登山隊が結成された
●立教大学の成功が、日本人初の8千メートル峰・マナスル登頂につながっていく

 日本人がヒマラヤ初登頂に成功したのは1936年10月5日午後2時55分。立教大学山岳部によるインド北部のガルワール・ヒマラヤにそびえる名峰、ナンダコート(6867m)初登頂だ。登頂に成功した隊員は、大学OBの堀田弥一隊長、大学院生の山縣一雄、学生の浜野正男と湯浅巌、そして毎日新聞の竹節作太記者と、ダージリンシェルパのアンツェリンの6人。戦前に日本人がヒマラヤ登山に成功したのは、このナンダコートが唯一で、日本登山史に残る偉業として今も輝き続ける。

 登山隊に特派員として参加し、頂上にも立った竹節記者が80年前に書いた記事が手元にある。「死闘遂に報いらる! 聖雪にひれ伏し泣く 見よ、荘厳極まる景観」登頂の感激を伝える見出し。日本を船出して80日目に到達した頂上だった。しかし、頂上にゆっくり滞在する余裕はなかった。

 「烈風は立っていることが出来ないほど強く吹き、寒気が刻々と強まってカメラのシャッターさへ押し得ないほどだ」からだ。隊員は「持参の日章旗と立教の校旗、(毎日新聞)本社の星章旗(それには各関係者の名を記した)を、アイスピトンとハンマーにしっかりとしばりつけて頂上の雪中に深く埋め、万歳を三唱して急いで下山の途についた」

 頂上に埋められた日の丸、立教大の校旗、そして毎日新聞の社旗。その3本の旗を探すことを目的に、再び登山隊が結成され、7月4日に記者会見が行われた。隊員は立教大学山岳部OBの堀達憲、鈴木拓馬を含む5人。隊長はダウラギリ三山縦走で知られる著名な登山家、大蔵喜福だ。それにしても80年も前のことだ。常に氷点下の山頂とはいえ、重い金属のハンマーに結び付けられているならば、当時よりかなり深く沈んでいるのではないか。記者会見で大蔵さんは「頂上にテントを張って、寝てでも探したい。みつかるまで帰らないつもり」と、意気込みを語った。金属探知機も持っていくのだという。80年前の旗がみつかれば、日本登山史を語る貴重な財産となるだろう。

 それにしても、よくあの時代に登ったものだと思う。1936年の日本は、戦時色が強まる最中だった。登山隊は当初、隊員8人を予定していた。立教大学山岳部は、ヒマラヤをめざして、剣岳や鹿島槍ヶ岳など、積雪期の北アルプスで初登攀(はつとうはん)を重ねて実力を付けていき、隊員候補者を12人以上リストアップしていた。そこへ2・26事件が発生する。事件の混乱で、募金活動の開始が遅れ、登山隊は資金難に陥る。出発も危ぶまれた。部員の家庭の事情も加わり、隊員はたった4人になる。そこへ、資金を出す代わりに、毎日新聞から記者を1人連れて行くよう要請があった。その記者が竹節作太さんだった。竹節さんが参加しなかったら、歴史的な登山を記録したフィルム映画『ヒマラヤの聖峰 ナンダコット征服』も撮影されなかったに違いない。スキーの選手でもあり、体力があった竹節さんは、重さ11キロのカメラを頂上まで担ぎ上げ、撮影を続けた。

 1936年のヒマラヤ登山を俯瞰すると、世界最高峰エベレストも未踏峰のままだった。イギリスが威信を賭けて挑む第6次の登山隊が派遣されたが、失敗している。同じ年に、ナンダコートの近くにあるこの山域の最高峰、ナンダデヴィ(7816m)を英米隊が登頂に成功したのが当時の人類最高到達高度だ。ちなみに、このときナンダデヴィ登頂に成功したうちの1人は、1924年の第3次エベレスト登山隊で、最終キャンプから頂上へ向って行方不明となったジョージ・E・マロリーとアンドリュー・アーヴィンの最後の目撃者となったノエル・オデールだった。エベレストは戦後の1953年に、イギリス隊が悲願の初登頂を果たす。1999年にマロリーの遺体は発見されたが、あのときマロリーが、世界初のエベレスト登頂を果たしたのか。それは今も登山界最大のミステリーとされている。

 ナンダコートに話を戻す。ヒマラヤ初登頂に成功した立教大学山岳部の登山隊メンバーは帰国後、歓迎とともに質問攻めにあった。当時の毎日新聞に『“ヒマラヤ征服”の日を語る座談会』と題した記事がある。当時の日本山岳会会長・木暮理太郎、慶応大OBで後にマナスル初登頂の隊長となった槇有恒、京都大学の今西錦司や南極の第1次越冬隊長にもなった西堀栄三郎ら山岳会の重鎮の質問に、登山隊メンバーが答える。

 高所での頭痛の程度については・・・

 「Q:痛くなった頭の部位は?」

 「竹節:後頭部です」

 「浜野:ぼくはこの辺(と前額部を両手で抑えて)」

 「Q:アイスクリームを多く食べたときの痛さと違うかね」

 このほか食料や装備、人夫の使い方など細かい質問が飛ぶ。そして、座談会のメインテーマは次の遠征に。

 エベレストはイギリス人、世界第3位のカンチェンジュンガはドイツ人が執念を燃やしている。ネパールは入国できない。ならば世界第2位のK2だと、希望が膨らんでいく。そして、全日本パーティーというのは出来ないのだろうかと話が盛り上がっていくのである。それは日本人初の8千メートル峰・マナスル登頂という形に結実した。戦争をはさみ、ナンダコート初登頂から20年も後の1956年のことだった。ちなみに堀田は、マナスルの第2次登山隊の隊長にもなったが、不運なことに地元住民の反対でベースキャンプにもたどり着けなかった。

 実は、日本人のヒマラヤ初登頂となったナンダコートに、私自身が30年前に登っている。当時、立教大学山岳部の学生として、初登頂から50年を記念した登山隊で再登頂を果たしたのだ。そのとき堀田弥一さんと山縣一雄さんは健在だった。特に堀田さんについては、ご自宅を訪問し、初登頂のルートや登山に対する考えを、長時間伺う機会があった。そのとき私は大学2年生で20歳、堀田さんは78歳。60歳近く年齢が離れていたにもかかわらず、登山の価値観は完全に一致し、感激した記憶がある。国家的な威信をかけて臨んだマナスルでは、大量の隊員や物資を動員して、少数の隊員が頂上に立つ登山スタイルが取られた。それが戦後のヒマラヤ登山のスタンダードになっていった。

 1980年代に入り、登山の価値観は見直されていくのだが、堀田さんたちは、少数のシェルパの力は借りたものの、自分たちでルートを切りひらき、隊員全員が登頂に成功した。それは現代登山の価値観と重なるのだ。

 手前味噌のような気もしたが、伝える価値があると思うので書かせていただいた。ところで、30年前の登山について話をするときに「なぜそのとき、頂上に埋まる旗を探してこなかったのか」と聞かれることがある。なんで探さなかったのだろうかと、しばらく考え、思いついた。そのときは堀田さんが元気だった。なにしろヒマラヤ初登頂を牽引した、鉄の意志を持つ人だ。がんこな一面もある。「旗を掘り返してきたい」。そんなことを提案したら、堀田さんの性格ならば「恥ずかしいことをするな」と言ったかもしれない。堀田さんはその後、2011年まで生き、102歳で人生を終えた。すべてが歴史の中となった今だから、80年前の「偉業の旗」を探すことが許されるのかもしれない。

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